わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

71年前のこと

今週のお題「年内にやっておきたいこと」

 部屋のかたづけをしないとなあとおもいはじめてから2か月くらい経ってしまった。10月に途中までやって、そのあとまたちらかりだしていた。どうもかたづけが苦手で、なにかしらの制作をやっていると特に部屋がちらかってしまう。きょねんのいまごろはもっとひどかった。卒業制作の追いこみをかける時期だった。週3日しかない授業を休み、足の踏み場もないくらい資料をひろげて、講演会の音声が録音されているMDを流しながら、朝から夜遅くまでずっと書いていた。それまで小説を書いてきたわたしが卒業制作でノンフィクションを選んだことに驚いていた先生もいたけれど、どうしても書かないといけなかったし、たぶん、どうしても書きたかったのだとおもう。

 いまから71年前のことだ。そのころはまだ戦争があって、わたしが通っていた高校(当時は旧制中学校だった)の先輩にあたる少年たちは愛知県の軍需工場で学徒勤労動員としてはたらいていた。1944年12月7日13時36分、東南海地震が発生した。マグニチュード7.9の大地震だった。軍用機をつくるために改造された工場はあっけなく崩れて、多くのひとが生き埋めになって死んでいった。母校の先輩たちも13人亡くなった。けれども、ほかの国に軍需工場が崩壊したことを知られるわけにはいかなかったらしくて、情報統制がしかれ、東南海地震は知られざる地震になった。

 高校生のときにはラジオドキュメントをつくったし、大学の卒業制作でもノンフィクションとして書きあげたけれど、どうもまだやりきれていないところがあって、もう一度リライトと再調査をしてみようとおもっている。それはすぐに終わるかもしれないし、これからまた何年も時間を費やすのかもしれない。このできごとを知っているひとがみんないなくなってしまうまえに、いちばん良いかたちで記録を残しておきたかった。当時の少年たちはもう89歳になっていた。

 おととい、高校から借りていた資料音声が入ったMDを返しにいった。10月に部屋のかたづけをしたときに借りっぱなしになっていたものがいろいろ出てきたのだった。ひさしぶりに入った放送室は埃っぽくて、部員がいないから物置になっていた。いつか資料のMDは処分されて、彼らの声も消えてしまうのだろう。

 うろ覚えだった高校から自宅への帰り道はところどころ建物が変わっていて、けれども、前はどんな建物だったかなんておもいだせそうになかった。

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