風花
地面をつたってからだ全体をおおきく揺さぶるような地震だった。国会図書館のガラス戸がばちばちと音をたてていた。そのときわたしは大学の卒業制作の資料を集めていて、日本地震工学会の会誌を読んでいるところだった。長い揺れがようやくおさまって、いまのでどれくらいのおおきさだったのだろうかとおもってスマホで検索してみたら震度5だった。ほんのすこし悲鳴もあがったけれど、揺れがおさまってしまうと元どおり時間が進みはじめた。東京のひとたちは慣れているのだな、とおもった。わたしは死んだらどうしようと不安になるくらい怖かった。2014年9月のできごとである。
あまり地震がこない地域に住んでいるのもあって、すこしでも揺れると怖い。会社の建物がトラックの出入りのたびに振動するのも、はたらきはじめたころは地震だろうかとおもって毎回身構えていた。けれど、1年も経ってしまえば慣れてしまって、そういえば揺れているなあくらいにしかおもわなくなった。そうやって油断しているところに、震度3の、震度のわりに地面からつきあげるようなきつい縦揺れの地震が起きたときはやっぱり怖くて、京都だって地震は起きるのよなあと、ごくあたりまえのことを再認識するのだった。きっと大地震だって、晴れわたった空に風にふかれて雪が舞いおりてくるように、突拍子もなく発生する。
大地震が起きる回数よりも多くの日数を人間は生きているから、風化させないようにしましょうなんて言っても忘れている期間のほうが長い。とくに、被災地以外のところに住んでいるとどうしてもあたまのなかから地震のことは消えていく。どうしようもないんである。せめておもいだすきっかけのひとつやふたつを胸にとどめておけたらとおもうのだけれど、それでは手遅れなのだろうか。
『君の名は。』を見て、生まれてもいないころの大地震と、嵐山の集中豪雨で何度も鳴った警報音をおもいうかべて、ちょっとだけ苦しくなった。