わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

2017.3.11 ささくれ

目がさめて、ぼやぼやと起きだして、吉本新喜劇を見ながら恋人が買うてきてくれたマクドをいっしょにたべていることがふいにしあわせで、これ以上のことってないんとちゃうかなっておもうのです。きのうは「ペーパーマリオ カラースプラッシュ」のラスボスのくろクッパをなんとか倒したのやけれど、さいごのさいごでマリオの相棒役のペンキーがいなくなってしまって、ディズニーランドのエレクトリカルパレードみたいなエンディングを迎えても、ピーチ姫がとなりにいても、マリオがちっともうれしそうにせえへんくって、マリオのゲームでこんなやりきれへんエンディングってあるんやなあってちょっとびっくりしました。きっとペンキーはどこかから見守ってくれているよ、みたいなことをピーチ姫が言うのやけれど、そんなこと言うたっていまこの場所にたいせつなひとがおらへんことは変えられへんし、見守ってくれてるからって、だからそのひとのために笑顔でいようって、人間そんなに弱いままでいられへんよ、わりと強く生きていってしまうよっておもったのでした。よく、おらへんくなったひとのぶんまで生きる、みたいなことばを聞くのやけれど、そんなことできるんかなとか、じぶん本位で生きていくことってそんなにわるいことかなとか、ついつい考えてしまいます。それこそわたしがじぶん本位で考えてるだけなんやとおもうのやけれど、おらへんくなったひとがじぶんのぶんまで生きぬいてほしいってほんまに願わはるかなって、背負わすようなことするかなって、おもってしまうのです。せやから、6年前の3月11日にうまれたおとこのこが幼稚園か保育園でたくさんのひとがお星さまになった日にあなたはうまれたんよって先生に言われたんやっていうニュースを見て、なんてことを言うんやって、なんでわざわざ背負わすんやって、怒りのような悲しみのような、とにかく、なんでなんやっていうきもちになりました。むかし、お兄がうまれてわたしがうまれるまえに妊娠してた子を流産したころに沢田知可子の「会いたい」をよう聞いてたんやっておかんに言われたことがあって、言われたときは、ふうんそうなん、くらいにしかおもってへんかったのやけれど、歌番組で「会いたい」が流れたときになってようやっとだれかが死んでわたしはやっと生きてるんやなって、なんや重大なことに気づいてしまった気がして胸が苦して、どうしようもないことやのにめそめそと泣いてしまいました。だから余計に、だれかがおらへんくなっても笑って呼吸して生きていくことを、だれかの痛みを肩代わりすることができひんことを、しあわせに過ごしていくことを、3月11日の空が綺麗な青色をしていたことを、許していてほしいのかもしれません。ミュージカル映画『RENT』の「Seasons of love」っていう曲みたいに、525600分ある1年をはかる計器は、できればコーヒーを飲んだ回数とか夕暮れをむかえた回数とか、たいせつなひとといっしょにいる時間がいいから。

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