わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

ぷらぷら

 原付を運転しているおとこのひとのヘルメットのベルトがぷらぷらと揺れているのを見ながら、魂ってからだのどこに入っているのだろうかと考えていた。もちろん、あたまを怪我したら死ぬ確率が上がってしまうからヘルメットをかぶるのだけれど、心臓がとまったら確実に死んだことになるわけで、心臓がある胸のあたりを守らないのってちょっぴり変な感じがする。たぶんこの変な感じは、こころはあたまのなかにあるのかそれとも胸のなかにあるのかという問題と似ている。そしてわたしは、ロマンチックもファンタジーもかなぐり捨ててこころはあたまのなかにあるとおもっている。胸のなかではなくてあたまのなかの脳みそでものを考えるからだ。ただ、なにかの番組で、鬱の薬は血中に溶けた薬の成分の割合が安定することで効果を発揮するといっていたから、胸のなかにこころがないとしても、あたまから胸にむかって感情が流れているということはありえるのではないかなともおもう。感情的になったときに胸のなかにもじょもじょしたなにかが溜まって苦しくなるのも、じぶんがコントロールできないところでこういうことがからだのなかで行なわれているからなのかもしれない。

 5月に母方の祖父が亡くなってから、お寺さんの説法で死に関する意味づけを聞かされることが何度もあった。祖父は生前徳を積んで過ごしてきたのだから死後の世界でもうまくやっていけるとか、お経のお題目をみんなで唱えたのだから祖父の魂は死後七日ごとに訪れるちょっと怖いひと(とお寺さんが仰っていた)のところを無事に通過できるとか、この世に残されたがわの人間が安心するためのはなしだ。お寺さんの仰る意味づけをすべて信じきる必要はないのだけれど、いまのわたしは意味づけに救われているようで、こころが救われたいときは・あるいはこころが落ちこまずに済ますためには信じてしまってもいいのかもしれないなとおもう。

 祇園祭の宵々山に行くまえに寄った丸善河野裕子さんの『蟬声』を購入した。ちょうどこの歌集の季節がきている。本人が亡くなったあともことばが生き残っているのってとても強い事象だ。わたしの祖父はただの手芸屋の亭主だったので、ことばのような、本人の意思がわかるようなものは残っていない。レイコ、と祖母のことを呼ぶ声をなんとなく記憶しているけれど、祖母はなぜか偽名をつかっていたのでレイコはほんとうの名前ではない。この夏はどうしようもない時間の流れに乗せられがちで、梔子もやっぱり剪定のひとたちが来てしまって花ごと刈りとられてしまった。空ばかり綺麗な色になろとする夏だ。