わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

コットンキャンディ

 松尾橋の信号を待ちながら、ふと、ちいさいころはあんなに綿菓子が欲しかったのに、いまはぜんぜん興味がないなとおもったのだった。三が日やお祭りの日の神社の参道に並ぶ屋台の、アニメなんかのキャラクターが描いてある大きな袋に入った綿菓子。あのようなものを買ったところでたべきれないことは目にみえているのに、どうしてあんなに欲しかったのだろう。

 綿菓子への妙な憧れは膨らんでいき、小学三年生のころ、わたしはついに綿菓子を買ってもらうことに成功した。といっても、屋台のみたいなたいそうなものではなく、スーパーで売っている、ちいさなパックに詰められた五袋一セットの綿菓子である。梱包によって四角く整頓された綿菓子は想像よりもふわふわしていなくって、むしろごわごわしているくらいだった。口のなかに貼りつくとただの砂糖のかたまりでしかないし、唾液を吸ってどんどん堅くなっていくし、たべごこちがあまりすきでなかった。けっきょく、綿菓子としてたべることにはすぐに飽きてしまって、朝食のコーヒーに溶かして消費するようになっていた。それ以来、綿菓子はたべていない。たぶん、こどものころのわたしが抱いていた綿菓子がたべたいというきもちは、雪をたべてみたいとか、雲をたべてみたいとかいう身近なものにたいする無謀な幻想に近くって、実際にたべたり実物を手にいれたりする必要はなかったのだとおもう。そういうことが幼いころにはわからなくって、うっかり憧れて、うっかり手に入れて、うっかり期待はずれなきもちになって、がっかりしてしまったのだろう。

 元日の松尾大社駅はいつにも増してひとが多かった。いまはお金を持っているから、買おうとおもえばいつでも綿菓子を買えるけれど、もう欲しいとおもうことはないだろうなとおもう。おとなになればもっと賢くなって、必要か不必要かで欲しいものを判断できるとおもっていたのに、欲しいものがどんどん複雑になっていくのが気にくわない。愛とか、名誉とか、才能とか、そんなものはことばでしかなくってくだらないものだよね、なんてひねたことも言えなくなって、不定形のものばかり求めてしまう。それなりにお金の自由がきくせいで、お金で買えないもののほうに惹かれてしまっているのかもしれない。

 ねえ、ちゃんと意味がわかっていて欲しいとおもっているの?

 正しい理由をもってして欲しがっているの?

 じぶんのなかの、なにか足りない、という足りなさの埋めかたがわからなくてもどかしいときの過ごしかたを、将来のわたしは知っているのだろうか。

 いちばんまえの車両のほうが空いていたなとおもいながら、嵐山駅から桂駅までの四駅しか走らない四両編成の電車に乗りこんだ。