わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

横顔

 すきなひとの横顔を間近で見られるのは恋人としての特権だとおもう。遠くから眺めるのは誰にだって許されている行為だけれど、すぐ隣からとなると別だ。いっしょにゲームをするとき、手をつないで歩くとき、並んで眠るとき。ひょっとしたら恋人というのは正面からよりも隣から見つめることのほうが多いのかもしれない。

 超近距離恋愛をしているにもかかわらず、わたしはときどき恋人に電話をかける。声が聞きたいからというよりも顔が見たいからというきもちのほうが強くって、FaceTimeのビデオ通話をする。1、2分も歩けばすぐに会える距離で電話をするなんて、とっても贅沢な時間だ。五山の送り火の中継を見ながら、あるいはおなじ映画を同時に再生しながら通話をすることもあるけれど、おたがいなにも話さずに、相手が映っている画面からも目を離して、各々の居場所で別のことをしていることが多い。それだけで充分だった。電波を繋いでいるだけの時間がどうしようもなく心地よくって、恋人がすぐそばにいるのと同等の安らぎを得ることができた。

 ときどき画面を覗きこんで、恋人の横顔を眺める。恋人はたいていゲームかパソコンをしていて、視線の先にある液晶画面からの光で顔が白っぽく照らされている。そういう顔は小学生のころにもパソコンの授業で見ていたのだろうけれどまったく覚えていない。中学生のころに家まで遊びにいったときにゲームをしていた後ろ姿が、じぶんのiPhoneのなかで無防備な横顔を見せているのが不思議だった。すごく、すきだ。ここのところ、結婚していてもおかしくない歳というのに邪魔をされて生き急ぐことももどかしいおもいをすることも多かったのだけれど、なにも焦る必要はなかったのだなとおもう。忘れるとおもっていなかったしあわせな感情を失くしかけていて、それが消えていかなくてよかった。これまでとおなじ熱量ですきでいられてよかった。あたらしい年になってはじめての通話をして、ぐちゃぐちゃになっていたじぶんが元の健康な状態に戻りつつあることに気づいたのだった。

 同棲したらこうやって電話することはなくなるのだなあとおもうとちょっぴり寂しい。なにもしない、ぼやぼやした時間をいっしょに過ごせるひとというのはかなり貴重だ。ふと、恋人がいままでにふたりで撮ったプリクラを画面に映して、わたしもじぶんが持っているのを手もとに出した。プリクラは横顔ではなく、どれも正面をむいていて、カメラをむけられたときにする笑った顔をしている。新しいものになるにつれ顔面を美しくするための加工がひどくなっていき、はじめてプリクラを撮った19歳のときのわたしたちはとても若くて、もっと若いときの顔だって知っているはずなのにやたらと幼くみえた。ずいぶんと大人になったらしい。恋人の目にじぶんがどのように映っているのかはわからないけれど、シェルターのような存在であれたらいいなとおもう。『RENT』の「I'll Cover You」という歌のようなふたりになれたらいいなって、おもうのだ。これはかなり真面目なはなしである。