わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

窪美澄『すみなれたからだで』

窪美澄『すみなれたからだで』

――この身で生きて愛するということ。
すみなれたからだで

すみなれたからだで

 

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 あなたには愛ということばが似合う、と愛を信用していないひとに言われたことがある。まるで嫌がらせやなと苦笑したのをいまでも覚えている。一時、そのひととは愛の信じられなさについてよく話していた。愛しているという台詞には信憑性がないだとか、そんなことを言ってしまっては薄っぺらいだとか、云々。

 窪美澄さんの短篇小説集『すみなれたからだで』に登場するひとびとは、愛すること・愛されることを求め、実行しながら生きている。描かれているのはことばでさらってしまえるような安っぽくみえる愛ではなくって、からだからぶつかっていくような想いであり、切実な人間関係だ。

 『ふがいない僕は空を見た』を読んだときにも感じたけれど、窪さんは人間を描くのが上手い。『すみなれたからだで』の主人公たちは結婚している(そして離婚している)女性をはじめ、独身男性、高校生女子、高校生男子、老婆とさまざまである。そして、どの人物をとってもきちんと肉体があり、心情や行動がリアルなのである。このリアルさの一因は現代以前が描かれていることにある。「バイタルサイン」の主人公が高校生だったときは昭和天皇崩御のころで、テレビには昭和天皇のご病状が映しだされている。その時代を経て主人公は大人になり、かつて愛しあった母の再婚相手の病室を訪れる。「朧月夜のスーヴェニア」の主人公は戦時中を生きたひとで、婚約者の帰りを待ちながらも戦火のなかで別の男を愛し、抱きあう。現在ではぼけた老人のようにおもわれているけれど、こころのうちではそのときの記憶を栄養にして生きている。〈人間は数限りない記憶のつまった袋なのだと認識した〉(「父を山に棄てに行く」より)という一文のとおり、人間は記憶の積み重なりと膨大な時の流れによって形成されるのだ。

 だからこそ、彼ら・彼女らが感じた痛みを、わたしも全身で受けとめることができるのだとおもう。からだは老いていくばかりだけれど、そのなかにあるだれかを想うきもちはとまらないから。

 わたしは窪さんが描く愛をめちゃくちゃ信じている。