わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

池田澄子『思ってます』

池田澄子『思ってます』

――あの日のわたしは思うことしかできなくて。
思ってます

思ってます

 

 

  〈思えば物心付いて以来、当然のことながらいつも何かを思っていた。が、思いは、何の役にも立たない〉。

 この冒頭文を手がかりにして、導かれながら、わたしは池田澄子の第六句集『思ってます』のページをめくった。そして、なんや、役にたたへんとか言っといて思ってるやんか、と思うのである。

花の夜のテレビニュースの嵐かな

 『思ってます』には作者自身が過ごした時間が流れている。ある一定の場所から眺めている風景や観察対象の変化が、十七音の景色に切り取られていく。わたしが気に入っているのは「じっとしたおたまじゃくしは居ないものか」と「まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは」の二句で、おたまじゃくしに対して素朴な疑問を抱いたり、蛙への変化にこれほど驚くことができたりする純粋さが素敵だなと思う。生活拠点だけでなく外出先のことも俳句としておさめられていき、やはり、思っているのだった。

 ところが、あとがきでどんでん返しがやってくる。

心配をしながらリラを嗅いでいた

 この句集は二〇一一年から二〇一五年の半ばまでの、東日本大震災の後につくられた俳句で編まれている。〈直接には被害を受けていない私、敢えて言えば多くの私たちは、ひたすら人々の無事を祈り心配した。余りの心配と祈りは言葉を受け付けなかった。思いは何の役にも立たなかった〉――あの日、高校を卒業したばかりのわたしは余震すらなかった京都にいて、現実とは思えないような津波の映像を見て呆然としていた。できたのはツイッターで拡散されていた地震関連の情報をリツイートすることくらいで、あとはひとびとの無事を願うことしかできなかった。

 言葉があるからひとは思うのか、思うから言葉ができたのかはわからない。わたしは、言葉が、文章が、小説が、じぶんや誰かを救えると信じていままで書いてきた。でもそれは、傲慢にも言葉に甘えすぎていたのかもしれなかった。言葉さえあればなんでもかたちにできると安心しきっていた。けれど、違う。だって、わたしの思いは無力なのだから。

春寒の灯を消す思ってます思ってます