わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

夏ははじまる

 物が壊れるように世界をつくった神さまは、ちょっと意地悪な気がする。壊れるというのはかたちが変化するということだから、それなら物が永久に壊れずに一定のかたちをとどめているほうが楽だったんでないかとおもえて「物が壊れる 神」なんててきとうなキーワードで検索してみる。神さまが出てくるような宗教関連のページはひっかからず、〈形あるものみな壊れるなら、神や魂には形はありませんか?〉という質問が出てくるくらいだった。けれども神さまや魂にかたちがなければ、死後からだがなくなっても精神のようなものは壊れなくて済むのかと、すこし救われたようなきもちになるのだった。

 さいきん口をひらくと河野裕子さんのことばかり言っているのだけれど、ここ数日は「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」という短歌があたまのなかをぐるぐるとまわっている。河野さんが亡くなる前日に、さいごに詠んだ短歌だ。『たとへば君 四十年の恋歌』(河野裕子永田和宏著)によると、手をのべての歌を詠むまえ、呼吸が苦しくて胸を掻きむしり、「もう死なせて」と言ってしまうくらい具合のわるい波がきていたのだという。その状況で・その体調で短歌を詠むなんてものすごいなあとただただびっくりするきもちにもなるのだけれど、「息が足りないこの世の息が」ということばがほんとうに強い。この世の息、というのはそれまでじぶんが吸うことのできていた空気だけれど、それが足りない。世界が変化してしまってじぶんに生きるための空気を与えてくれない。けれども、ほんとうに変わってしまったのは病気で弱っていくじぶん(河野さんは乳癌を患っていた)のほうなのである。なのだけれど、世界のほうが変化してじぶんからずれていくように感じられて「息が足りないこの世の息が」につながるのだと、わたしはおもっている。わたし・オン・ザ・世界の関係が破綻していく感じが、悲しくて、恐ろしくて、すきなのである。(『たとへば君 四十年の恋歌』のことはそのうちあらためて書く予定だ。また、河原町三条のBALの丸善に『蟬声』という歌集が置いてあるのだけれど、七月ちゅうにお金の目処がたてば購入したいとおもっているのでそれまでそこにあってくれとたいへん我儘なことをおもっている)

 ことしは川沿いの梔子がぶじに咲いて、よかったね、じょうずに咲いたね、ぽたっとした綺麗な白だね、いいはつなつのにおいだねと、あそこを通るたびにご機嫌である。もうすぐ剪定のひとたちがきて、花ごと刈りとられてちょっとだけ殺されてしまうのだろうけれど、それまでわたしの夏のはじまりであってください。