わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

おまえの興味ないときの顔

 ゼミの先輩がじっとわたしの顔を見るので「なんですか?」と尋ねると、口を軽くむすんで無表情になった。

「これがおまえのなんもないときの顔。それからおまえの興味ないときの顔」

 そう言うと、先輩は口を半びらきにして、視線だけをこちらにむけた。あらまあ、わたし、先輩のまえでそんなだらしない顔をしていましたか。わたしはくすくすと笑いつつ、けれどもすこしむっとしながら、先輩の指摘のとおり若干あいていた口をとじた。先輩こそ片方の手で髪の毛をぐるぐると触りたくる癖があって、その動作をしていないとあなたは死んでしまうのですかと言いたくなったけれど、いまさら言うほどのことでもないので言い返さないでおいた。某誌に掲載された先輩の小説によるとゼミの後輩というのは〈ぼうっとした感じ〉らしい。たしかに先輩ほど小説を読めるわけでも筆が立つわけでもお酒が飲めるわけでもなかったし、わたしにいたっては口もあいているのだから、〈ぼうっとした感じ〉とおもわれて当然だった。以前、歯医者で「前歯が乾燥気味ですけど、口よくあけてはりますか? 鼻炎やったりしますか?」と聞かれたことがあるので、なるべく口があかないように気をつけようとおもう。それから耳鼻科にも行ってみようとおもう。猫アレルギーでないことを祈る。

 3月11日、恋人と大阪の万博記念公園まで梅を見に行った。桜もすきだけれど、探梅という季語を知ってから梅もすきになった。桜は縦に横にしなやかに枝を伸ばして花の色の木になるのに対して、梅の枝は上にむかって伸び、花が影をつくらないので、しぜんと枝のむこうがわにある空も見つめることになる。そのあいまの青い景色がすきだ。水に映りこんで海を青くする空だ。梅の花といっしょに空を眺めていると、触れられそうなくらい空が近く感じる。

 でも、空は近いとか遠いとか、物質的な距離ではかれるものではなくって、概念のような目にみえないものに寄っているとおもう。エキスポシティの観覧車に乗っても、わたしたちが空に到達することはなかった。ゴンドラが上昇していくごとに、地上にいるひとびとが、車が、建物が、みるみるうちにちいさくなっていく。〈地球は人間の為のものではなく、人は、地球の一隅に居させてもらっていたのだと思い知らされた〉というのは池田澄子さんの『思ってます』のあとがきのことばだけれど、わたしたちは人生ゲームの付属品のパーツみたいに地球に乗っかっているだけなのだった。それはほかの動物もおなじであるはずだけれど、人間だけが地球に従順に生きていない気がする。そういえば、先輩がわたしの卒業制作を読んでくださって、おまえにはこれ、とプレゼントしてくださった石牟礼道子さんの『苦海浄土』をまだ読んでいないなとおもった。ずっと読まないでいるうちに石牟礼さんは亡くなってしまったし、ずっと購入時期を見定めていた『泣きなが原』という句集も何者かが追悼のために買っていってしまったらしく丸善からなくなっていた。

 そういうものだ。

 恋人といるとついへらへらしてしまうので口があいてしまう。これは興味がないからではない、すきだからだ、愛しているからだ、油断という求愛行動だ、と言い聞かせた。