わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

愛の精度

 たいへん甘ったれた性格をしているので、わたしはすきなものをすきだと言うひとのことがすきだし、わたしのすきなひとたちはみんなすきなものをすきだと言って呼吸をしていてほしい。

 魚は変温動物だから人間とおなじような体温はないのだけれど、京都水族館で魚の群れを眺めて、動いているいきものだから魚はあたたかいのだなとおもってしまうくらいには弱っている。たまたま餌やりの時間に水槽のまえを通りかかって、魚たちが餌を求めてざわめき、群れのかたちが崩れていくのを、恋人といっしょに見ていた。レオ・レオニの『スイミー』みたいに、一匹の魚でなく、水槽のなかにいるすべての魚がひとつのいきもののようにうごめいていた。

 愛、とか、すき、とかといった不定形のものについて考えるときに、わたしはよくこころのことを水の入ったコップに置き換えて考える。きもちの量だけ相手のコップに水を注いだときに、相手を溢れさせてしまったり、じぶんが涸れてしまったりするような関係を、愛、とか、すき、とかと呼びたくないんである。けれど、コップのなかの水自体になにか変化が起こったとき、たんにコップを傾けて水をわけあう作業だけではどうしようもないのかもしれないという可能性を、いままで考えていなかった。ひとの感情ってこちゃこちゃと絡まっていてもひとつ芯がとおっているものだとばかりおもっていたけれど、わたしがおもっていたほど単純ではないのかもしれない。じぶんによるじぶんへのご機嫌とりがうまくいかなかったとき、どうすればいいのだろうとおもう。水を綺麗にするための装置とか突沸を防ぐための沸騰石とかは相手のコップのそばにあるのだろうかとおもうし、相手にそれをコップに入れてもらうことを求めてしまってもいいのだろうかともおもう。

 裏切られたことなんて特段ないはずなのに、わたしたちは愛しているということばの胡散臭さを知りすぎていて、すきという事象に説明を与えられないことを落ちこんだりする。すきなものをすきと言うひとは、そのような自尊心やあたまのわるいじぶんという像への傲慢さに足をとられていない感じがしてすきだし素敵なひとだとおもう。わたしはときどきすきなものにたいする悪口のようなものを見聞きして、コップにひびが入ったり穴があいたりしたみたいにすきという感情を逃してしまうから、わたしのすきな、すきなものをすきと言えるひとたちを不機嫌にさせるようなことが起こらなければいい。先述のとおりたいへん甘ったれているから、すきなもののために不機嫌になるあなたのことを見ていると至極悲しくなるのだ。

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