わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

一線

 上りのエスカレーターには乗れるのに下りのエスカレーターには乗れないような、ややこしくて面倒くさい子どもだった。帰省でよく乗り降りしていた京阪の駅で、エスカレーターを使って先に下の階にむかっている家のひとたちをひとり階段で追いかけていたことをいまでもよく憶えている。

 同担拒否だと気づいたのはさいきんのことだ。共通の推しをもつ友人から推しの話題を振られても、せやなあ、としか返事ができず、戸惑っているじぶんがいる。きっと正解の返事にはもっとびっくりマークとかハートマークとかが要って、なんてごちゃごちゃと考えなくてもまばゆい感情がおのずとあらわれて、推しがすきなのだと相手に納得させるような気迫があるのだろう。友人はまさにそういったひとで、数々の推しに愛を振りまき、推しから得た感動によっていつでも元気いっぱいだ。それをおもうとわたしは、陰ながら応援しています、という常套句のままに陰に隠れて静かにしているようなたちだから引け目を感じているのかもしれない。

 世間が〈推し〉という概念をはっきりと認識したのは間違いなく宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』が芥川賞を受賞したときだろう。そして、オリンピック誘致の際の〈お・も・て・な・し〉同様、〈推し〉ということばが本書以外のニュースでもしょっちゅう、嬉しそうに使われていたのが印象に残っている。ネット上や界隈ではずっと存在していたことばだったけれど、メディアには新語のように映ったらしい。

 『推し、燃ゆ』でいう〈推し〉は盲目なほどの信仰だ。推しである真幸こそがあかりの世界であり、どうしようもなく、すべてだ。

 愛の多様性がうたわれている時代にわざわざ書くことでもないけれど、愛しかたもそれぞれでいいはずで、それだのに、すきなものに熱くなれないのは欠陥なのではないかと不安になる。推しを推している瞬間は楽しい、でも、いまここにあるものには終わりがあって、終わってしまえばあとは忘れていくだけで、また新しいものをおなじように好いていくということのやるせなさが、あたまにずっとこびりついていて、のめりこみすぎないように、推しがわたしのなかで使い捨ての過去にならないように、愛に一線を引いている。流行、が、流れて行く、と書くのは上手だ。

 すきになるなら、長く、丁寧に、ゆっくりとすきでありたい。

 下りのエスカレーターに乗れるようになったのは小学生になってからで、乗れるようになるとどうしていままで乗れなかったのか不思議でならなかった。さいきんは運動という名目で階段で上り下りすることが多くて、エスカレーターにはほとんど乗っていない。