わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

証拠などない

今週のお題ゴールデンウィーク2017」

 文学フリマに売りものの本を持っていくのを忘れる夢をみるなんて、こんなゴールデンウィークのはじまりかたがあっていいのかとすこし絶望した。しばらくは夢の余韻に疲れてぼうっとしていたけれど、連休なのだといいきかせると目が冴えてきたので、千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』を数ページ読んだ。数ページ読んで、脳みそが情報過多気味で耐えられそうになかったので本をとじた。読まないなら書こうと、うたの日という短歌の投稿サイトに「遅れ咲きし桜はやけに陽を吸つてずるいよ春を憶ひ出させて」という短歌を出した。それから片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』と東直子さんの『とりつくしま』の読書記録を書きはじめた。この調子でゴールデンウィークの空き時間にほかの3冊の読書記録も書けたらよいなあとおもったところで、恋人から夕方までは暇だと連絡がきて、本屋に行こうと提案してみた。つぎの読書会でやるコーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』と、よい流れで読書ができそうな気がしたので山崎ナオコーラさんの『人のセックスを笑うな』と、大学時代のゼミの先輩の小説がSFマガジンに載ったのでそれを買うのだ。積ん読が山をなしているからあまり本を増やさないほうがいいのだろうけれど、たまには買わないとストレスがたまるので月に3冊までなら買ってよいことにしたのだった。昼食の冷凍食品のパスタを温めつつ、さっきの短歌は「春を憶ひ出させて」より「夏に憶ひ出させて」のほうがいいんでないかとか、「遅れ咲き」ということばはあるけれど「遅れ咲く」ということばはないだろうと気がついて「遅咲きの桜はやけに陽を吸つてずるいよ夏に憶ひ出させて」に修正した。その後、「ずるいよ春を零したりして」とか「ずるいよ夏に零したりして」とか「ずるいよ俺は憶ひ出せない」とか何度も書き直して、「ずるいよ君を憶ひ出せない」はぜったいに嫌だとおもいつつ一度書いてみたところで「遅咲きの桜はやけに陽を吸つてずるいよこんなにあなたの春だ」にすることにした。

 『すべての美しい馬』だけが買えなくて、4日は京都市動物園をぷらぷら歩いたあとまた本屋さんにむかった。見つけた瞬間、太い! とつい言ってしまった。読書会のときに課題作は短めのがいいとか、スタッフの連絡網でもフランソワーズ・サガンの『悲しみよ こんにちは』が短めでよいんでないかいうはなしになっていたから、てっきり200ページくらいの本だとおもっていたのだった。500ページ弱あるからはやく読みはじめないとなあとおもうと同時に、千野さんの本のつづきも読みたいし、このあいだまで春でしたと言える5月のあいだには後輩から借りている長嶋有さんの『春のお辞儀』も読みたいなあと無茶苦茶なことを考えていた。本を読むのが遅いくせに、わたしはいつも本を読むことばかり考えている。

 5日は延暦寺に行くことにして、そのまえに一乗寺で腹ごしらえをすることになった。ラーメンがすきな恋人にあっさりの気分かこってりの気分かと聞かれてこってりの気分だと答えたら、スープがどろどろでほぼ固形物になっているのが特徴のラーメンのお店につれていってくれた。鶏ベースだからなのか、こってりしているけれどくどさがなくてとても美味しかった。その日のできごとは、延暦寺に行く、というのがもとになっているのだけれど、ラーメンと、静かで緑のにおいがたくさんする比叡山のことばかりおもいだされる。延暦寺は改修中で、いちばんの見どころとおもわれるところが見られなかった。下山してから鴨川デルタにすわりにいった。おんなのひとがギターを弾きながら中島みゆきさんの「糸」をうたっていた。なんとなく、いつになったらいっしょに住むのかというはなしを振ってみる。恋人はへらへらと黙る。未来のことを軽々しく約束しない、やさしいひとである。このはなしが、しょっちゅう行っているカレー屋さんで、どうせ定住やろ、一戸建て買おう、という会話につながったことにとてもびっくりしたし、おかしかった。同棲よりも、結婚よりも先に一戸建て(しかも新築一戸建てだ)を買うなんて変てこりんすぎる! 恋人はこれは冗談で妄想だと淡く否定していたけれど、理にかなっている気がしてそれでもいいんでないかなんてちょっとおもっている。もちろん、じぶんたちの親がいつ一戸建てを買ったのかを考えると無茶なはなしだけれど。

 なんとなく振ったはなしを7日のファミリーレストランまで引きずって、こんどは籍を入れるというのはどういうことかというはなしをした。恋人の大学時代の後輩のおんなのこがさっさと籍を入れてしまいたいみたいなことを言っていたらしくって、恋人どうしであることと籍を入れることはそんなに違うのかと恋人は疑問におもったらしい。そりゃ違うやろ、と言いつつ、こだまさんの『夫のちんぽが入らない』を読んだばかりだから、入籍とか出産とかあたりまえになっていることってほんとうにあたりまえでいいのだろうかとおもえてくる。籍を入れることで、なにか変わるのだろうか。わたしには、なにかをしたところでわたしたちはわたしたちのままありつづけるような気がする。彼はゲームやらパソコンやらに夢中で(わたしの家のネットの遅さまで気にする)、わたしは読書やら書くことに夢中なまま、生きていくのではないだろうか。できればおたがいがおたがいをすきなまんまで。なにかのドラマで、結婚や子育てはじぶんのやりたいことを我慢することだみたいなことを言っていたけれど、たぶん、わたしたちは我慢しなくてすむ方法を編みだしてしまうとおもう。それくらい、すきなことには頑固だ。

 話しながらだと考えがまとまらなくって、ファミリーレストランを出てからも考えて、おんなのこが籍を入れたがるのは彼との関係の証がほしいからなのではないかとおもったときにはゴールデンウィークが明けていた。月曜日はいつも以上にぽやぽやと地に足がついていない感じがした。仕事から帰って、連休中に見そびれたパトリス・ルコントの『ぼくの大切なともだち』のDVDを見た。〈“愛はない あるのは愛の証拠だけ” でも 逆だと思う “証拠などない 愛があるだけ”〉という台詞にやたらと感動して、この台詞がすきだとツイッターにたくさん書いた。愛があるだけって説明がつかないけれど、よいことばだ。

 愛があるだけ。

 愛があるだけ。

 そうして、日常になじんでいく。

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