わらびの日誌

Please forget me not, but I'll forget you. So it goes.

カート・ヴォネカット・ジュニア『スローターハウス5』

カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5

――風花の記憶、あるいはスノードームの凪。

 こたつに足を入れると柔らかい感触がしてとっさに爪先を浮かせたけれど、その必要はないのだと気がついて爪先をおろした。もう蹴ってしまうことも、噛みつかれることもなかった。病猫が死んだということだった。そういうものだ。

 病猫が死んで以来、母がもう一匹の健康な猫にたいして「あの子やったらこの缶詰だいすきやったのに」なんて言うのだけれど、わたしはまだその手の軽口をたたけないでいる。こういうとき、カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』があたまをよぎる。

 物語は〈聞きたまえ――/ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた〉ではじまる。ビリーはけいれん的時間旅行者で、自らの人生のあらゆる瞬間にランダムに離陸しては着地する。ドイツ軍の捕虜であったころや娘の結婚式の日、トラルファマドール星でのできごと、そしてじぶんの死の瞬間にまでも降り立ち、何度も経験することになる。ビリーは第二次世界大戦ドレスデン爆撃というショッキングな場面を迎え、物語は〈プーティーウィッ?〉でおわる。

 物語がはじまるまえにこのような文章がある。〈サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だがそれは、大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ〉――記憶はことばに収納されていく。ときにはだれかの胸に深く降り積もる物語になり、ときには使い古されて風花のように消えていく。だから、ひとは苦いおもいでを語って救われたり強くなったりするのだとおもう。そうすれば、おもいでは過ぎ去っていて、もう戻ってくることはないのだと認識することができるから。そう考えると、『スローターハウス5』は生煮えの、爪をたてればすぐに破けてしまう柔らかい瘡蓋のような小説だ。幸福な記憶も痛ましい記憶も、ビリーは現在のできごととして目撃しつづける。彼にとって人生のどのできごとも過去にはならないのだ。

 こたつに潜ると、病猫がけいれん発作のたびにたれ流していた尿のにおいがすこし残っていた。ここはまだ過去ではない証だった。